ベンチャー・スクールとしての学院

1970-12-18

松村文武 (学部1965卒・ds)

軽いカルチャーショックから小生の学院生活が始まった。予習復習なしに、成績が絶えず学年トップだった中学時代のようにはいかなくなったことが一つ。もうひとつは山の手育ちの善友(後の悪友)とのであいであった。上野の不忍池で産湯を使った下町江戸っ子気質にとって、彼らのカルチャーとの遭遇は、その後の人生において大いなる刺激と悩ましさをもたらした。しかし、概して、ハンチントン教授とは異なり、「文明の衝突」はこの場合、新たな融合効果をもたらしたと、今、懐かしく回顧している。時代は奇跡と形容された高度経済成長の真っ只中であったが、他面で安保反対や早稲田の生んだ屈指の大衆政治家浅沼稲次郎氏の暗殺といったシャドーをも引きずったカオスの三年間であった。ただし、小生は概して非共学・男子専科にその身のあるのを嘆いたり、ザレ歌に惹かれるといった軟派の学生であった。しかし、それにはそれ相当の理由があった。

ことの始まりは、音楽的素養に恵まれた東郷正昭君 (山武常務) の「薫陶」に接したことである。クラシックをスコアつきで聴くことを嚆失に、ハワイアンミュージックやロックに手を染めながら、遂に「現代音楽研究会」なる疑似クラブをでっち上げるまでに至った。そしてその行きついた中身はモダンジャズであった。これはもはやザレ歌の類ではない。

しかし、このためには何人かの奏者と、練習や研究のための場所の提供が不可欠となる。幸いなことは、最初の仲間の中に、幼少からピアノに親しんでいた佐藤嘉剛君(佐藤工業相談役)がいたことである。彼の瀟洒で防音的な自宅がそのために提供されたのである。小生はドラムスを担当し、後に、これに関根秀一郎君 (監査法人トーマツ公認会計士) がテナーサックスを引っさげて加わり骨格が出来上がった。

ところで、モダンジャズは、いまでこそ幅広い市民権を得た音楽として定着しているが1960年前後という時期は、普及のきっかけとなった映画「死刑台のエレベーター」の日本公開の数年前に当たる。したがって、客観的に見て、この時期におけるかかる高校生ジャズコンボの結成は前衛的だったといってよい。

事実、このメンバーは学部に進学して「早大モダンジャズ研究会 (WMJG)」という第五番目の大学公認軽音楽団体設立の中核になっていくのである。この中から、後に、世界的なアーティスト (ギターの増尾好秋やベースの鈴木良雄) のほか、異色の人材 (タモリ等) を輩出することとなる。

銘記すべきはこの音楽的冒険を可能にした背景であろうが、その答えは学院が多様かつ開放的で意欲的な学生の集まる場だった、ということに尽きるといってよい。そして、それはおそらく音楽分野にに限定され得ない奥行きを持っていたのだろう。というものの、小生が学部卒業に際して、180度転換し、大学院進学という意外性を選択した心象のうちには、上述した学院時代にビルトインされた進取の精神が投影されていたに違いないからである。

そして、今日、研究者としての小生への評価は、実証的手法を尊びながらも独創的展開を忘れない (学の独立) というものである。 その結果生まれた、ベンチャー・ハイスクール出身研究者の5冊目となる最新冒険作は、『国産化の経済分析-多国籍企業の国際産業関連』(岩波書店、1998年12月刊行) と題されている。

(早大学院50周年「卒業生回顧録」より)

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