ダンモ研と私

2001-12-18

それからが大変で、朝や夕なに練習に明け暮れ、自宅では近所迷惑だと怒られ、戸山ヶ原の丘の上で吹きまくっていた。同好会であるから練習場もなく、市川にあるピアノの村越の家まで出向き、村越家にずいぶん迷惑をかけたものである。

当時はダンス・パーティーが盛んで、その年のX’mas頃には自前でやろうということになり、ステージ衣装もそろえなくてはと、開店したばかりの新宿の丸井で真っ白なブレザーを月賦で買い、緑の蝶ネクタイに黒の学生ズボンという出で立ちで、バンド名は "グリーン・スターズ" の初仕事となった。結果は黒字となり、ブレザー代も払えることになり、リーダー下谷実の企画力と行動力に敬服した次第である。

明くる年の昭和33年春には、会員募集のポスターを見た逸材・河辺氏と鳥海氏が入会し、ジャズ・バンドの形を呈してきたが、相変わらず村越家で練習し、ダンス・パーティーを活動の場としていた。

当時の早稲田のバンドは、応援団のブラス・バンドを筆頭に、ハイ・ソサエティとニュー・オルリンズ・ジャズ・バンドが大活躍していたが、丁度創立75周年の記念会堂が落成され、そこで早稲田祭として初めて演奏会が行われることになった。我々も演奏会に参加して名をあげようということになり、モダンジャズ研究会の全権大使として勇んで協議会に出席してみると、あに図らんや、部になっているバンド曰く、同好会は公認バンドでないから参加させないというではないか。

下谷、村越、八木は来年卒業だし、なんとしても学生時代の総決算にして貰いたい――と持ち前の反骨精神で交渉を重ねた結果、付録で出演ができることになった。(下谷ーDr、村越-P、八木ーCr、河辺ーT、鳥海ーB、中村ーTs)