加藤正孝さん (1962 tp) から、小川晃一郎さん (1963 as) のこと

2017-10-18

ハワイ在住の加藤正孝さん (1962 tp) から、小川晃一郎さん (1963 as) の思い出が送られました。ダンモ研創生期の様子が綴られています。(事務局・西川)


同好会だったモダンジャズ研究会を河邊さん、中村さんから引き継いだ我々は毎年、5番目の軽音楽公認団体となるべく申請を行っていたが、モダン・ジャズを理解出来ない教授会で認められなかった。教授会の様子は、私が個人的に親しくしていた商学部の山根教授から伺っていた。いくら山根先生が "違い" を説明しても、大多数の教授連は「ハイソかニューオリに入れば済む事」とし、モダン・ジャズを認めようとしなかった。

公認団体でないと地方の稲門会が演奏会に呼んでくれず、資金調達もままならない中、思い出すのは、山口県の稲門会が宇部興産の劇場に呼んでくれた事。カネの無い我々――マネージャーを入れて確か7人――日下、枡山、神沢、小川、加藤、ベースが誰だったか思い出せない――は、東京駅から鈍行列車で一日掛かりで宇部まで行った。大きな会場は満員で皆 "ビビった" が、観客は最後まで拍手をしてくれ、一同感激した事が記憶にある。兎に角、部室を持たない我々の練習場は、高田馬場駅前の山手スタジオで、皆が個人で金を出し合って練習していた次第。

演奏部だけでは説得力が足りないと判断し、鑑賞部を作った。初めてアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズが来日する等、モダン・ジャズ・ブームが起こり始め、鑑賞部へ入部する学生が増え、会員の総数が確か70〜80名位に膨れ上がったと記憶している。一方、我々4年生は就職活動に入り、会の活動の中心は、3年の小川君に委ねられた。私が独断と偏見で命名したダンモ研の小冊子『Contour』の発行も、初めての軽井沢での合宿も、小川君のアイデアであった。 (因みに、4年生では早目に就職が決まった私だけが合宿に参加出来た。)

色々な意味で教授会へ再アピールする条件がそろった矢先、最有力なハプニングがあったのである。教授会の会長をしていた教育学部長の滝口教授の愛娘が、鑑賞部に入部してきたのである。早速、小川君が彼女にそれまでの経緯と公認団体の重要性を訴え、種々努力を積み重ねてきた事も認められ、次の教授会で遂に公認されたのである。山根教授から公認の一報を受けた時の感激は、未だに忘れられない。公認団体になってからの皆さんの活躍ぶりは、社会人で忙しくなった私の耳にも入ってきていた。

小川君は、60歳を過ぎてもジャズに対する情熱を捨てず、多摩市近郊の公民館で「マイルスの会」を主宰し、毎月10~15人の人達とジャズの鑑賞を続けていた。その後、病を得たと聞いたが、現在連絡はとれていない。ダンモ研創設の功労者である小川晃一郎君のことをOB諸兄に知ってもらいたく、筆をとった。

加藤正孝 (1962 tp・ハワイ在住)

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