7月17日は40歳の若さで亡くなったテナーの聖人John Coltraneの命日です。亡くなられた1967年の前の年に実現した日本ツアー、大学のジャズ研として初めての "単独インタビュー" に臨んだ、68年卒・観賞部・部長の前田連望さんに、当時を偲んで書き物をお寄せ頂きました。
コルトレーンのLive in Japan 1966年7月11日。当時大学3年生の僕の、21歳の誕生日だった。東京サンケイホールは空席が目立つ入りだった。ジャズ界の最先端を走るジョン・コルトレーンのコンサートといえば、熱狂的なファンが大勢つめかけると予想していた僕には意外だった。来日のメンバーは全く新しく、エルビン・ジョーンズの後にラシッド・アリ、マッコイ・タイナーの後にアリス・コルトレーン、加えてテナーのファラオ・サンダーズ。ベースだけがジミー・ギャリソンで変わらなかった。黄金のクワルテットを期待していた僕には、余りにもインパクトが強かった。ガツンと頭をたたかれ、今まで持っていたイメージを粉々に砕かれた。コルトレーンのわな泣きに、僕は体を震わせ、自我を解放し、それまでには感じたことのないエクスタシーと、コルトレーン・ミュージックを独り占めしている喜びに酔いしれた。「これがジャズなのか‥?」「いやいやこれこそジャズの第二の革命」と評価が割れても、コルトレーン教の信者たちは支持し続けたのだが、翌年1967年7月40歳で帰らぬ人となってしまった。
ジャズの第一革命をチャーリー・パーカーとすれば、第二革命はコルトレーン。ビバップの時代、誰もが「パーカーのように演奏したい」と、パーカーを目指した。パーカーを乗り越えたのは、モンクとマイルスとコルトレーンの3人だった。モンクはピアノ界の異端児、モンクのような演奏をしようとチャレジしても誰もモンクのようにはできなかった。しかしモンクが残した名曲の数々は多くのミュージシャンが取り上げる。マイルスも不思議だ。マイルスの音楽的取り組みは今思えばかなり画期的なことをやっている。色々な影響を与えてきた偉人には違いない。しかし、その演奏をまねたのはウォーレス・ルーニーだけ。コルトレーンはパーカーを完全に越え、現代のジャズの土台になっている。皆、コルトレーンのように演奏したいと願い、コルトレーンのような演奏をし、皆がコルトレーン風になった。しかし、コルトレーンのようにバラードを吹き、コルトレーンのように "至上の愛" を奏でられる者は現れなかった。
1966年7月9日。プリンスホテル、マグノリア・ルームでのモダンジャズ研究会の学生による質疑応答。その詳細は藤岡氏の『コルトレーン 〜ジャズの殉教者〜』 (岩波新書) で45年ぶりに明らかになった。その全容は我々が45年前のダンモ研の会報にインタビューとして書き起こしていた。昨年の50周年記念パンフに岡崎正通さんの解説付きで紹介をした通りです。
誰がコルトレーンのインタビューを企画提案したか定かではない。当時僕は鑑賞部の部長をしていた関係で、呼び屋の斎藤延之助氏と交渉した記憶がある。事前に質問事項をまとめて臨んだが、最後の方で追加質問があり、「貴方は菜食主義と聞いているが如何か」という質問を通訳する高橋直 (70年・B) が困った顔をした。彼は両親の関係で海外生活を経験し英語が話せるということで通訳に引きずり出されたのだが、菜食主義などという日本語は聞いたこともなかった。そこで菜食主義の解説を脇ですると、"ベジタリアン" か "ベジタリスト" と訳すと通じたのを覚えている。
会見は30分程だったが、最後に僕がコルトレーンにお礼の「サンキュー」を言って握手をし終了となった。マイルスと肩を組んで写真を撮った先輩の奥村禎秀氏には及びもつかないが、私にとっては一生の自慢となった。呼び屋の斎藤延之助氏と交渉中に、結局チケットを50枚ほど捌くことになり、そのお陰で、東京での公演、10日・11日のサンケイホール、22日の厚生年金会館の3回とも招待券で入場し、上記のような体験をすることができた。
『John Coltrane Live in Japan』の2枚組CDには会見の模様が付録として付いている。
このCDには熱狂する聴衆の熱い拍手が録音されている。46年前の出来事が蘇る。私の拍手の音も入っていると思うとジンときてしまった。
前田連望 (68 / 観賞部)
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